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対談:ドキュメンタリー映画『小学校 ~それは小さな社会~』を鑑賞して、“組織と個人の関係性”を日本と米国の学校生活から考えてみた
2025/3/11 ブログ 小学校それは小さな社会, キャリア, ドキュメンタリー映画, 人事, 人事評価, 人材開発, 小学校, 採用, 教育システム, 日米教育比較, 組織と個人, 組織コミュニケーション, 組織開発
ドキュメンタリー映画『小学校~それは小さな社会』は、その短縮版である『Instruments of a Beating Heart』が、米国アカデミー賞の短編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされるなど、国内外で注目を集めています。
この映画は小学1年生と6年生の教科学習以外の時間に焦点が絞られており、そのような経験が日本人特有の価値観の形成に影響している可能性を示唆しています。
イギリス人の父と日本人の母を持つ山崎エマ監督は、大阪の公立小学校を卒業後、中高はインターナショナル・スクールに通い、アメリカの大学へ進学した。ニューヨークに暮らしながら彼女は、自身の“強み”はすべて、公立小学校時代に学んだ“責任感”や“勤勉さ”などに由来していることに気づく。
「6歳児は世界のどこでも同じようだけれど、12歳になる頃には、日本の子どもは“日本人”になっている。すなわちそれは、小学校が鍵になっているのではないか」との思いを強めた彼女は、日本社会の未来を考える上でも、公立小学校を舞台に映画を撮りたいと思った。
出典:映画『小学校 〜それは小さな 社会 〜 』公式サイト
職場や様々なコミュニティにおいても垣間見える日本人特有の価値観や行動様式。それを客観的に知ることで、日本とそれ以外の国の教育の違いや、それが組織や個人の関係性に与える影響、より良く他者と働くことのヒントを見出せるかもしれない…。
本作を鑑賞した当社メンバーの対談を通じて、皆さんも一緒に考えていただけたら幸いです。
この映画を鑑賞した当社メンバー2名。ひとりは日本の公立小学校を半世紀前に卒業した映画フリーク、もうひとりは日本人の両親の元、幼少期から学齢期を米国で過ごした海外ルーツのメンバー。鑑賞後に互いの経験に基づく感想を語り合ってもらいます。
対談者
河原畑 剛
教育や介護関連のサービスを展開する企業に37年以上勤務し、2024年4月よりHRコンサルタントとしてCMCに参画。映画検定1級を取得するほどの映画好き。
久寿米木マイク智日人
米国カリフォルニア州で生まれ、大学卒業と同時に米国を離れ日本で就職。プロモーションやWEBマーケティングを展開する企業を経て2017年よりコミュニケーションコンサルタントとしてCMCに参画。
小学校の教育システムは、日米でどう異なるか?
マイク
この映画は、海外の教育現場と日本のそれを比較する監督の意図がありますよね。何故そう感じるかというと、学校での係とか、校内行事の役割を責任もって担わせていく場面を丁寧に見せていること。演奏会とか校内放送の仕事とか。生徒に役割が与えられ、どうやって役割責任を全うするかという描写がすごく多かったですね。私が育ったアメリカの公立小学校では、そういう機会はほとんどありませんでした。
河原畑
そうですか。教科の学習以外の要素、いわゆる『特別学習(特活)』。小学校の学習指導要領に、こう定義されていました。“特別活動は,学級活動,児童会活動・生徒会活動,クラブ活動及び学校行事から構成され,それぞれ構成の異なる集団での活動を通して,児童生徒が学校生活を送る上での基盤となる力や社会で生きて働く力を育む活動”と。そういうものは、米国の小学校にはないと?
マイク
多少の役割が与えられることはあっても、本作で紹介されているほど力を入れることはありませんでしたね。米国の小学校における生徒の役割は、教科やスポーツに専念すること、という意識がハッキリしていたかと思います。それ以外の要素は、いわば余計なものという位置づけだったかと。
河原畑
この映画の中では、「提出物などを忘れない」といった生活指導を、先生が6年生に向けて強く意識付けする場面がありました。「いい加減に過ごしていると中学で大変になるぞ」と。
マイク
生活面の指導は「先生が教育することではなくて、親の役割」だという認識が米国にはあると思いますね。学校で子ども同士が喧嘩した場合、学校はすぐに親を巻き込みますよ。そして保護者に「ちゃんと教育してください」と学校から言うわけです。生活上のルールを守ることは親がちゃんと責任持ちなさい、だって学校は生活の場じゃないからという考え方です。
河原畑
日本でも家庭での躾(しつけ)を重視しますが、同時に学校の生活指導にもそれが期待されています。先生に「しっかり指導してください」という、親だけでなく社会の期待、なのかな。
マイク
生徒間のいざこざは米国でも当然ありますが、あったとしても、それが学校の役割かって言ったらそうではない。少なくとも私の体験からそう思います。
河原畑
学校という共同生活の中で、さまざまな役割をこなすことから学ぶ、というのは日本の小学校の特徴なのでしょうね。
マイク
そういう経験で直面する責任感とか役割の負担というのは、いずれ社会に出れば、本人が抱えるはずのものですよね。それを小さいころから学校で学ぶというのは、日本らしさを感じますね。
河原畑
そうやって子どもの頃から培われた、集団の中での責任感のようなものが、日本の精密な電車の運行管理などにつながっているのかも、という声が、この映画をめぐって聞かれます。日本的な教育の良い面・悪い面を映し出すことで、監督である山崎エマさんは問題提起をしていると思うのですが、そのいずれかをナレーションで強調することもなく、カメラが捉えたシーンだけでシンプルに描写し、観る者自身が考えることを促しているように感じました。
マイク
私が強く感じたのは、子どもにとっての評価のあり方の違いです。
河原畑
学校で何が評価されるか、ということ?
マイク
さっきも言いましたが、米国での学びはシンプルなんです。学業でもスポーツでもしっかり集中して全力で高めなさい、と。少なくとも小学校では一本の道を高速で走る感じです。一方で、映画にも描かれた日本の学校生活では、道が複数あって、総合的に評価されるように感じました。
河原畑
教科の勉強ができるかどうか、という単純な評価ではないという感覚ですね。
マイク
学校コミュニティの中で、多面的に評価されていく複雑さ、ですかね。シンプルな道を競う米国式は、ある意味で気楽ともいえます。私は米国で、日本式の補習校に通った経験がありますから、その違いは体感しました。
河原畑
学校での振る舞いすべてが、先生の目線だけじゃなくて、生徒同士の相互評価にさらされているとも言えますね。確かに複雑。
マイク
米国式と日本式で、どっちかが優れているということではありません。学校時代にシンプルな評価を受けてきても、社会に出てそのまま通るというわけではないので。
河原畑
大人の社会の縮図みたいな、評価のあり方が、日本の小学校にはあるとも言えますね。確かに当時を思うと、学校生活が息苦しい時もありました(笑)。
マイク
6年間で、総合的な優劣が見えてくる感覚。大きな序列ができあがるような。
河原畑
良くも悪くも、日本の子どもは早くから大人になってしまうのかな。
マイク
本作を鑑賞して学校の先生の仕事がとても大変なんだという感想も抱いたんです。総合的な評価を可視化していくために、さまざまな機会を子どもたちに与えなくてはなりませんから。ナレッジを教えること自体は、そこまで負担ではないと思うんです。でも、何か人間としてのあり方を教育するって、伝え方にも工夫が必要ですし、感情の面でも疲れると思うんですよ。
河原畑
先生の日常もかなり時間を割いて描いていましたね。そうしたストレスや、達成感も。そして、この特別活動も、扱い方次第では、いじめの誘発など子どもたちのコミュニティにつらい影響を与えるリスクがあることを、先生たちが学ぶ場面もありましたね。
自責的 or 他責的? 内発的 or 外発的?
河原畑
学校での役割をこなす子どもたちの描写で、顕著なものが2つありました。1年生の女子生徒が演奏会のシンバルを担当するエピソードと、6年生の男子生徒が運動会のために苦手な縄跳びを練習するというもの。
マイク
シンバルの演奏のエピソードに関しては、私はちょっと引っかかるものがあって。
河原畑
せっかく楽器担当になったのに、練習さぼって演奏の足引っ張りますね。そうしたらみんなの前で先生からきつく叱られた。6歳児に、自らの役割の責任を詰めるシーンですね。
マイク
いえ、詰めたところは、それほど違和感なかったです。そのあと、彼女なりに頑張って見せたときの先生の反応…ですかね。そこが私にはちょっとマイナスイメージになって。なぜそう思ったかというと、精神的な操作をしたように見えたんですよ。
河原畑
精神的な操作?
マイク
先生は最初、演奏にとって結果が全てだと伝えました。「あなたは結果を出せていないので演奏が完成しない」というような感じで、児童にとって耳が痛いファクトを伝えるのは問題ないと思ったんですよ。で、その後、その児童が少しましに取り組んだら、先生が「最初からあなたを信じていました」というような声かけをしていたんですね。その表現に私は気持ちの悪さを感じてしまって。
河原畑
信じていたのなら最初からそう告げれば、と。
マイク
児童自身の練習の努力とその成果の問題を語っていたはずなのに、先生が児童を信じていたという文脈で言葉をかけたことですかね。ここで急に先生の感情的な面が前に出たことには、何かマインドコントロール的な意図を感じて、これを職場で経験したらちょっと嫌だなと。
河原畑
なるほど。そういう受けとめもあるわけですね。1年生の女の子にあそこまでの責任感を求めるとか、6年生の男の子が縄跳びの上達のために、自宅でも自発的に努力しているっていう描写のところはどうですか?
マイク
日本では割と特徴的なことかもしれませんが、問題が生じた時に、すごく自分を責めるところがあるじゃないですか。自責的と言いますか。自分を詰める傾向。
河原畑
あと、この映画、6歳と12歳を中心に映していますが、6歳って能力差の幅が小さいですよね。障害の有無などの要素を除けば、比較的みんなフラットな状態の中で1年生です。
マイク
そこからスタートして総合的に評価されていく。
河原畑
能力差のない中で、校内イベントを一斉に経験していくプロセスでは、あんまり他責にできないっていうのはありますね。同質なコミュニティ内で何か起きた時に、自分の責任です、すみませんと。
マイク
「あなたがちゃんとやっていればオールOKだったのに、その責任をどう感じますか」っていう風な、そういう受け止めになる。先生たちは極力そういう言い方を回避していましたが。それって日本の社会もそうですよね。何か起きた時に責任が問われて…。社会に出る準備をさせるって意味では、大切なことなんだろうとは思いますけどね。
河原畑
トラブル発生時を除いて、日本では電車の時間が1分遅れることがほぼないという、それを成立させているのが、非常に自責的に自分の持ち分をしっかりやりきろうとする文化があって、均質的に日本の大人たちに根付いている。その根っこが小学校生活にあるんじゃないかって話です。
マイク
で、私が思ったのは、個人のモチベーションの問題です。
河原畑
どういうこと?
マイク
人生において、何かするためのモチベーションがどこかから来るわけじゃないですか。それが自分の中から来るか、自分の外から来るかって話です。米国の場合、割と内発的というか、自分の中からこみあ上がる情熱や動機になる感覚が強いです。それが見つかった瞬間、それを全力で、周囲もやれやれと言ってくれる。
河原畑
日本の子どもたちも同じはずだけど、少し違う感覚がありそう。
マイク
日本の場合、何かをしなければならないとか、物事に取り組もうと思う理由が、おそらくどこか外部から来ている可能性は高いなと感じています。
河原畑
この映画でも学校のいろんなプログラムの中で役割を与えて、で、与えられた役割に対して内発的なものが出てくるように導いていく要素が描かれますね。
マイク
本作の中で縄跳びをがんばる6年生の話。縄跳び自体、別に自分がやりたくてやっているわけじゃないけど、先生の期待を裏切りたくないとか、いろいろあって、せめてみんなについていけるラインまでは行きたいと思って練習していますよね。
河原畑
彼は実際、自分が縄跳びできないという自覚があって、格好悪いし辛いな、みたいになっていた。でも練習して少しずつできるようになって、表情が少し明るくなっていく。
マイク
そこに達成感はあって、個人の喜びにつながるっていうのはあると思うんですけど。、どこか外部の要素を気にして、それに取り組む中での達成感が芽生えて、内発的なものに置き換わっていくようにも見えたんです。
河原畑
錯覚もあるかもしれませんね。外部から与えられた動機なんだけど、内発的なもんだっていう錯覚を起こすっていう可能性はありますね。
組織の中で役割を担う個人の動機とは?
マイク
職場で考えると、与えられた目標を達成しようという動機って、自己成長の欲求があるとしても、おそらく大半は何か外部的な要素、できないとやばいといったプレッシャーに根差すと思うんです。社会的に与えられた役割責任があるという現状があるから。
河原畑
日本で企業コミュニティに参加して、そこで与えられた仕事の中で責任を全うしようと努力し調整する、勤勉に働かねばという感覚。それは時に、自分たちを苦しめることになるんだけど、組織としてはクオリティの高い仕事で価値を提供する要素になっている。それが結構、ああいう小学校生活の中で、その基礎ができている感じを、本作を観て再認識しますね。50年前に小学校を卒業した経験からも実感しました。
マイク
そこはあると思います。社会の構造がよくミニマイズしてあります。
河原畑
ポジティブにもネガティブにも評価できることなんだろうけどね。映画は極めてニュートラルに描いていましたね。
マイク
米国の教育も、やはり米国社会を反映しているような気がします。米国でも会社員なら役割分担はあるし、それを全うすれば評価されます。でも、さらに分担された役割の出来を超越して、大きな結果を残す人が特別な存在になる、賞賛を浴びる傾向があると思います。例えばサッカー選手が、与えられたポジションに対する役割をどこまで全うできたかっていう点も当然期待されますが、その期待を超えた働きができるかどうか。日本と比較すると、米国では他より秀でる、特別であることが重視されているように思うんですよね。
河原畑
集団の中の役割をしっかりこなす、だけではないということですね。
マイク
そうかもしれません。所属する集団の中で想定される役割を超えたところまで行けるか、先生の指導を破って、どれほど異質というか異分子であろうとするか、みたいな価値観でしょうか。
河原畑
確かに、映画で描かれた小学校生活の世界って、すごく素敵だけれども、確かにあの中から逸脱した存在は出てこないかもしれないって感じはしますね。
マイク
例えば“You are average.” あなたは平均的だねっていう評価は、おそらく日本の中では良い評価のうちに入るかもしれないですけど。米国では、どちらかというと悪い評価というニュアンスが強いですね。
河原畑
もっと突出していく何かを求める、それを追わないと…、みたいな感覚ですか。
マイク
はい。「特別な存在になりたい」という意識が子どもの中に芽生えるような教育環境なのではないかと思います。
河原畑
映画の中では、子どもたちの努力と達成、それによる成長というものが、どちらかと言うと苦手だったものを克服するような感じで映し出されていたように感じましたね。自分の強みをぐっと伸ばすような場面はあまりない。カメラを回していた中には、そういう場面もあったのかもしれないけど、選択されたものはそうではなかった。
マイク
それが制作の意図かもしれませんし、たまたまかもしれません。ただ、特別な存在を目指すというのも、それはそれで結構しんどいものがありますので、どっちが良いとか悪いとか、優れているか議論ではないと思います。
河原畑
そう考えると、日本の、しかも昭和の集団教育を経て会社員になった私は(笑)、どこかで「『他者からの期待』にいかに応えるか」の意識が強かったと思いますね、今思えば。
マイク
本当ですか?
河原畑
実は若い頃、上司に指摘されました。「君は大抵のことは平均以上にやってくれて助かるけれど、ここ(職場)で何がしたいのかが見えない」と。その時はピンときませんでしたが、内発的な仕事への動機を見せてくれ、と言われたのだと、ずっと後で気づきました。
マイク
本当ですか?
河原畑
映画の中では、子どもたちの努力と達成、それによる成長というものが、どちらかと言うと苦手だったものを克服するような感じで映し出されていたように感じましたね。自分の強みをぐっと伸ばすような場面はあまりない。カメラを回していた中には、そういう場面もあったのかもしれないけど、選択されたものはそうではなかった。
マイク
それって、組織内で期待される役割を全うしなければ、という「べき論」を優先していたということですか。
河原畑
そう。「自分がこれをやりたい!」という内発的なものを後回しにして、無意識のうちに外発的なものを重視していたのでしょう。あくまで私個人の振返りなので、日本人すべてがそうだとは言いませんが。
マイク
本当ですか?
河原畑
実は若い頃、上司に指摘されました。「君は大抵のことは平均以上にやってくれて助かるけれど、ここ(職場)で何がしたいのかが見えない」と。その時はピンときませんでしたが、内発的な仕事への動機を見せてくれ、と言われたのだと、ずっと後で気づきました。
いかと思います。
マイク
「他者の期待に応える」を優先する個人の集団なら、秩序維持には強いでしょうね。ルーティンを正確に遂行する組織力も高そうです。自らを律するための他者評価という考え方もできるかもしれません。
河原畑
決まった目標に向かって、皆が努力して豊かになろう、というフェーズにハマる組織でしょうね。戦後の高度経済成長からバブル経済までの日本の強さ、日本企業の強さのひとつだったと思います。
マイク
目標を模索していくフェーズ、変革のフェーズでは、必ずしも強くない、ですか。
河原畑
内発的な強いもの、異質ともいえる特別なものに向かうもの、が大事になる気がします。
マイク
外発的なものも、内発的なものも、おそらくどちらも必要だと思います。
河原畑
小学校の日常を見つめる映画から、結構大きな話になっていきました。まだまだ、気づくことはありそうですね。この映画の短縮版が、米国のアカデミー賞にノミネートされました。惜しくも受賞は逃しましたが、国内外でいろんな意見が交わされていくのではないかと思います。